◆◇ “大江戸”の都市は緻密大胆”うずまき型” ◇◆ 

はじめに・・
令和に生きた江戸の殿様、『 志村けんさん 』のご逝去を悼み、謹んでお悔やみ申し上げますとともに、心からご冥福をお祈り申し上げます・・・。   

つい近世まで日本は江戸幕府下にあり、東京は江戸城を中心とした広範囲な城下町だった。

江戸幕府は、西暦1600年に徳川家康軍が天下分け目の「関ヶ原の戦い」で豊臣政権を制したことで、強大な力を得て幕藩体制を開き、西暦1603年に徳川幕府をスタートさせた。
世界では、同年1600年にイギリスで東インド会社が、1602年オランド、1604年フランスで各東インド会社が設立され日本との貿易関係を強め始めた。江戸幕府はほかにアジアとの貿易も活発に進めている。

江戸幕府は、このような世界交流を意識しながら家康、秀忠、家光の3代の将軍により興隆され、西暦1867年に第15代徳川慶喜が「大政奉還」を告げるまでの260年余もの間天下泰平の時代を続けることができた。『正宝事録』によると元禄6年(1693年)の江戸の人口は80万人ほどで、当時欧州一の都市のロンドン、パリもそれぞれ50万人程度ということから、元禄期の大江戸は世界でも屈指の大都市であった。
これはおそらく“うずまき型”都市計画のお陰かもしれない。。

もし、かつての織田信長、豊臣秀吉をベンチャー社長のような革新家に例えられるなら、徳川家康は緻密な都市計画と政治的手腕で国をまとめた人物であったように感じられる。

◆ 江戸城のこと
戦国時代までの城は軍事施設としての砦の要素が多かったが、徳川政権では権威の中心を「士農工商」で協調させて経済性や合理性を追求するための城作りを行ったのである。
徳川家康の江戸城である居所を「本城」とすると、これが本社であり、この本社をサポートする支社や営業所にあたるのが「支城」であった。支城は現代の組織のようにピラミット形の緻密な広がりで形成されたのである。

~The Imperial Please (Former Edo Castel)~
The Imperial please has occupied the site of the former Edo Castel since 1868. Edo Castle was the home of the TOKUGAWA Shoguns and seat of the feudal samurai government which ruled Japan from 1603 until 1867.

~江戸城の再建~
しかし、徳川家康が江戸に入国したときは、築城名手の太田道灌がもともと作った江戸城は、見る影もないくらいボロボロでみすぼらしく、あたりも湿地帯とすすき原の荒地でしかなかったらしい。そして現在の田町・霞が関・日比谷・新橋あたりは海岸線であり、日本橋・有楽町あたりは海面すれすれの砂洲だっだのだ。江戸は十分な都市計画ができる十分な平地がなかった。

この時、家康は威信をかけて江戸都市大改造のための大がかりな土木工事をし、地形改変を行う一大事業を行っていくことを計画した。この再生工事は、家康一代では終わらず、二代秀忠、三代家光将軍に引き継がれた。

最終的に、江戸城は本丸、西の丸、紅葉山、二の丸、三の丸、北の丸、吹上などいくつもの曲輪(くるわ)から構成された。また、石垣を持つ城郭は関東には少なく、関東には江戸城と小田原城(神奈川県)しか見られない。それは材料となる石垣がほとんどないからであり、江戸城の石垣も伊豆から船で100万個以上運び入れる苦労があったようだ。
そして、江戸城は近世ローマに匹敵するほどの最大規模の城郭になったのである。
しかし、今まで江戸城は7回、本丸御殿は5回の火災にあっており、近年では関東大震災、空襲などで焼失し、現在はいくつかの櫓(やぐら)、門、石垣が残されているに過ぎなくなった。

《令和の税金ワンポイント: 櫓(やぐら)は今のコンテナであるが、2019年にコンテナ型トランクルームの耐用年数を巡って税務当局と見解がわかれた事例が起きている。『器具備品』として短期間に償却することが通常であったエリアリンク㈱に対して、税務当局は”建築確認申請”をしているコンテナは『建物』の19.20.21年などの耐用年数を用いる旨の更正処分をしたのである。これを受けて同社は買取損失引当金を約50憶円計上している。今後土地への定着性は耐用年数判断の大きなポイントとなると考えられる。

~ 城を失った江戸城 ~
完成した最盛期には櫓(やぐら)は70基以上、天守閣も3度再建されたが、重なる災害で消失しており、1667年の火事では、社会全体に不安が広がったため江戸城の天守閣は再建されないまま、天守閣なしで城下町構築が展開されたのだ。そして、天守閣再建の終盤判断において家綱の叔父であった保科正之が、

「天守は近世の事にて、実は軍用に益なく、唯観望に備うるのみなり。これがために人力を費やすべからず」と主張したため、ついに天守閣は再建されなかったのである。これによって江戸城天守閣は再建されないまま永久に失われたのである。

~ 桜のない江戸城 ~
意外であるが江戸城を見渡すと桜は少ない。
実は江戸時代の城内の植木は庭園を除いては、軍事用に植えられたものなので、ほとんどが松だった。松は目隠しになり樹脂を多く含むので、たいまつなどの燃料にもでき、松竹梅として縁起もよかった。実際に江戸城は土塀では維持費がかかるということで松に変更されている。現在の“桜田門”にも、奥の方に近年植えられた桜以外は松しかないのである。

このようなことから桜は観賞用以外には役立たないとされ、桜が城内に植えられるようになったのは、かなり後であった。たとえば八代将軍徳川吉宗は隅田川沿いに千本の桜を鑑賞用に植えさせ、人を集めて土地を固めようと試みてはいる。

◆ 江戸の都市設計

~特殊なうずまき都市計画~
家康の江戸都市計画は、平安京で計画学とされた《陰陽学》の「四神相応の地※1」に照らし合わせて設計された。
(※1 東に合って青竜、南に合って沢畔あって朱雀、西無い道があって白虎、北に山あり玄武とあり、四神に適うとしている)

平和の兆しがあらわれた江戸時代には、この「四神相応の地」を原点としつつ、軍事施設だけではなく、一城の飾りとして権威を示す必要があった。
この着眼点から、江戸の都市計画は、極めて“例外的な計画=うずまき都市計画=”によって右渦巻の形式により拡大していったのだ。
地図をみると、内濠から外濠まで「の」の字のように渦巻いている。これによって、無限に発展できることになる。

うずまき型の城下町は、他にも姫路城、熊本城、仙台城にもあるのだが、これらは軍事力を主眼にしているため江戸のように市街地まで及んでない。江戸のこのようなうずまき型の都市構成は城下町として異例であったのだ。江戸城は、どの城にも似ていない政庁としての役割が濃かった。
徳川幕府は、同時に街道を江戸城の中心に集約し、濠(ほり)の渦線に結びつけた。これによって、江戸の都市構成は、水上路である渦線状のほりと、城の中核から放射線状に伸びる陸上とで綾をなすことができた。

~城下町がつくられる~
江戸城の城外には城下町が広大に広がっており、家臣たちの居住地の「侍町」、商人と職人が住む「町人地」や、社寺「寺町」が取り囲んでいた。

具体的には、江戸城は、現在皇居となっている西の丸、本丸、北の丸公園、大手前の内堀通りの「内郭」、その城を中心に濠が右渦巻にらせん状にぐるぐると取り巻き、柳橋が外濠の端で、浅草橋、お茶の水、小石川、市ヶ谷、四谷、虎ノ門、数寄屋橋、鍛冶橋、雉子橋まで。東は、隅田川、永代橋・両国橋までが城域である。平川を渡った上野、湯島、本郷、神田、雉子橋、一ツ橋、神田橋、常盤橋、呉服橋、数寄屋橋、虎ノ門、赤坂、四谷、市ヶ谷、牛込、小石川、浅草橋、お茶の水・・と「外郭」と呼ばれるエリアが囲んでいる。現在の外濠通りはほぼ江戸条外郭にそって作られている。現在の中央区と千代田区のほぼ全域はすっぽり江戸城域であり今の東京の中心となっている。

1630年頃の江戸は幕藩体制も軌道に乗り、江戸城の完成と300以上の町が形成され、京都を凌いで天下一の大都市として全国統合の政治的な中心地となったのである。

元禄文化(1700)のころには深川・本所・浅草・本郷・小石川・牛込・市谷・四ツ谷・赤坂・麻布などに広がり、名実ともに大江戸八百八町』へと発展していったのである。

~道と港がつくられる~
道であるが、経済的にも有利になるために、街道も城下町に通された。そして街道の横に町屋をびっしりと隙間なく建て中心部を見えなくしたのだ。
家康は全国支配を拠点にするために、このように江戸と各地を結ぶ道路網を整備し、家光の時代に街道は整えられた。そして四代義綱が日本橋を起点に放射線状に作った幹線道路が、五街道(東海道、日光街道。奥州街道。甲州街道。中山道)である。
江戸の街道は軍地目的だけでなく物流にもかかすことができない庶民の移動の生活道路となり、日本橋は五街道の起点として商業の中心地としされ、品川宿などの宿場も栄えた。

ただ、陸路も山道も狭かったので経済活動を行うためには水運をひき海運を整備する必要があり、海運も整備していったのである。
たとえば、日本を代表する海城としては、赤穂城(兵庫)、三原城(広島)、今治・高松・宇和島城(愛媛)などもあり、海辺に城を築き、城下町を港湾都市としたこのような城は、江戸城を筆頭に多くあり、現在の大都市の多くはそのような城下町から発展してきている事実もある。このように、江戸の都市設計は、水をたたえた水濠では高低さをつけたり、自然の地形を考慮して緻密に計算されたすぐれた土木技術プロジェクトとして、巧妙に改造されていった。

~都市の大きな転換を迎える~
このように、各城下町でも、商工業者の再編成、同種職人が一か所に集まって住み、海陸の交通インフラを整備したことで、顧客が増大し、貨幣経済も広がっていった。
うずまき型の江戸城下町は、家康、秀忠、家光の三代が37年間にわたって形成し、このうずまき型のお陰で、町人の経済活動は、武家の消費生活に結びつけられ、目的であった近世都市の機能を果たし、江戸は全国統合の地として家康の理にかなった方向になっていったのである。
江戸のもつ政治的な役割が大きくなるにつれて、徳川幕府はふさわしい都市になるための商業都市を作り、天下一の城下町として大きく転身させることができたと言える。

~徳川幕府のサクセスストーリー~
徳川幕府の特色は、全国に城下町を作ることで、各地が繋がることを前提とした手工業経済の発展と同時に武家との巧みな融合の結果、世界市場にまれにみる豊かな経済的、文化的発展をもたらしたとされる。
全国各藩の殿様や地方の文化平和の世相は、各藩の城の特徴を通してみることもでき、「一国一城」の夢が日本的なサクセスストーリーとして垣間見ることができるのである。

【江戸図屏風:左側】 (国立歴史民俗博物館蔵)
=江戸城と城下町を描いた最古級かつ最高傑作屏風で(17世紀中期)=
江戸大火で焼失した天守を中心とした城内、左より~中央右は大名屋敷、中央は東海道の日本橋と周辺には町屋がならぶ。三代将軍徳川家光の実績を画題として、狩猟、船、朝鮮使節来訪まで描かれ、描写人物は5千人とされている。

◆  江戸の Bad Things(災難)
◇・・徳川幕府のこの都市計画は概ね成功と言えたが、不都合の側面も多かった・・◇

江戸の災難は、ある意味、都市計画の設計リスクが表面化した結果とも言えた。
町民の家を軒を並べて密集して建てたため、人口密度は極めて高く、風通しも悪かったため、火事はいっぺんに広がったのだ。
しかし、江戸橋、本町、日本橋などのいくつかの裏通りは、井戸もトイレも接近しているスラム街があり、皮肉にも度重なる大火は町を焼き払うことで伝染病蔓延を阻止していた。

そして、そのたびに江戸は不死鳥のごとく再生し、ますます拡大し、火事はまさに『江戸の華』であった。それでも西暦1773に江戸に蔓延した疫病により19万人の死者を出した。このように江戸は度重なる災難を受け、最終的には上記で述べたように天守閣さえ失ったままになった。

◇ 江戸は多くの火事・震災・疫病を乗り越えて今にあるのだった‼

~疫病の薬
江戸時代の疫病には、コレラや、はしか、天然病があり江戸庶民を苦しめた。子供達ははしかや水ぼうそうを無事に乗り越えなければ、生きて大人になる事ができなかったのだ。

◇そのような中、語り継がれている、疫病を防ぐ江戸の人たちの知恵がいくつかある◇
*ひとつには艾(もぐさ)を使う方法があった。もぐさには燃え草という意味があるため、もぐさの原料である「よもぎ」の葉が万病に良いとされ、その葉をお灸に使ったり、煎じて飲んだりしたようである。ただし、真意はあきらかではない。

*ほかに家族がはやり風邪をひかないように「久松(ひさまつ)留守」と半紙に書いて玄関や軒下に貼り付け風邪よけにした時期もあったようだ。当時流行した風邪は、人気の歌舞伎に因んで「お染風邪」と呼ばれていたが、お染と久松は恋人同士で、『久松さんは留守をしていますので、お染風邪さんこの家に会いに来ないでね』との意味だったのだ。(「お染久松」は現在も度々上演される歌舞伎や浄瑠璃の演目) 

このジョークのような言い伝えから、江戸っ子のカラッとした粋さを感じる。
(上記参考:江戸散策/高橋達郎 https://cleanup.jp/life/edo/23.shtml)

◆  徳川幕府が行った Nice Things
徳川幕府は様々な困難を克服しつつ、どのように政策で安泰を築いたのだろうか。。
次にその一部を簡単に記載してみた。

~ カッチリとした防犯都市をつくる ~
江戸時代の城下町は完璧な防犯都市でもあった、城下町の所要には木戸があり、門番が管理した、その城下町は完全に城内に収まっており外郭の城門自体が総門になっているほどセキュリティに気を配っていたようだ。

~ 必要に応じて金品を交付する ~
江戸の60%を焼いた明暦の大火では相当の社会不安がおきた。幕府は再建工事を延期して、交通の整備や橋を整備すると同時に、大名や旗本にそれぞれ分限に応じて、金銀や下賜や貸付けていた。

~ 税のない時代が続いた ~
江戸時代の税はお百姓さんに課せられる年貢以外にはほとんどなく、町人地では、町民は地税がなかったうえ、敷地の廉価譲渡や優遇税制などをおこなっていたのである。
その一番の理由は、江戸は当時湿地の多い田舎だったので、“税金はいらないですので、そのかわり江戸に来て住んでください”という口コミで町人を江戸に集めたのだ。その後も地税については徴収のタイミングを逸し、徳川家の寛大さが示された。
他の理由として、日本は江戸時代の最初は世界有数の金銀銅の産出国であったので、鉱山からの収入で財政黒字が確保でき、その収入で財政が賄えたため、幕府は藩から税を課す必要がなかったのだ。また、商人への税がなかったのは、商人の所得の把握ができなかったので法人税や所得税に相当する税を課すことができなかったようである。
(ただし、一時的に“*宝永の国役金”と“上米制”という税が存在していた)

~ 楽市楽座の経済政策 ~
楽市楽座とは、城下町の繁栄を目的とした市場への政策であった。
“楽市”とは城下町の商売をするためにかかっていた税金を免除する。“楽座”とは独占的な商工業座を解体させて多くの新しい商人が取引に参入するようにし、自由交易の場とする目的の経済政策であり、独占権や税の免除などのかわりに地域内の神事に奉仕したりしてお互いに助け合っていたのだ。
これにより、戦国大名は領地内の商工業を活性化させることができ、うずまき都市計画の狙いどおり城下町は繁栄し領国内全体も活気づいたのである。

~ 御手伝普請や幕府諸儀礼と儀式の費用負担 ~
江戸時代初期は、藩は合戦で兵力を提供する軍役の代わりとして、幕府の公共事業を手伝う御手伝普請を行ったり、葬式費用の負担などをしてもらった。

~ 生霊哀れみの令 の発布~
第5代将軍の綱吉は犬年であったこともあり、過去の殺生の応報に報いるために、犬を大切にすることを進言し、犬小屋を設けて、犬の戸籍をつくり役人に飼育させている。   などなど。

◇ このように徳川幕府の政策は、「適応」と「改革」のバランスをとりながら行われた。
    功を奏したこれらの政策は令和の時代にも絶妙に引き継がれているように感じる ◇

 

◆  大江戸と棒状うずまき銀河は似てる⁈
さて、江戸は“うずまき型”に都市が構築されたのだが、実に自然界には多くのうずまきが身近に存在していることに気が付く。
渦をえがく自然現象には、竜巻、台風、うずしおもあるし、もっとミクロでみると人類のDNAもらせんを描いている。 (https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%B8%A6

うずまきは時間と空間も関係なく、物体の自然体なのだろうか。宇宙でも、棒状うずまき銀河がいくつも存在しており、江戸のように天守閣を失っても平面に広がっていく様子は、物体の自然な形を想起させるようである。

https://commons.wikimedia.org/wiki/File:Hubble2005-01-barred-spiral-galaxy-NGC1300.jpg?uselang=ja

これら銀河のうずまきの腕の中では、江戸と同じようなことが起きていると見ることができる。ガスは密度の高い場所でスピードをあげて、そこに存在する物体にぶつかって渋滞をおこし、ぶつかった拍子に次々に新たな星が誕生していくそうである。江戸は天守閣を失っても平面に広がり、らせん状の密集地帯には多くのエネルギーが集約され、新しいものが創造されていく様子が、棒状銀河と酷似しているように思える。

~うずまき形は動いている~
この瞬間も、太陽系は銀河系をおおよそ2億年で1周する速度で動き続けて少しづつ大きくなっている。
素人ながらこうした“うずまき形”は、エネルギーをばらばらにせずに収束させることも一方向に進ませることもでき、柔軟的な対応ができる“理想的な形”のようにも見える。

“うずまき形”は、まわる駒やキャンデイの模様のように常に人々を楽しくさせてくれるのは、終わりなく中心にむかって引き込まれたり押し出されたりと動的だからからかもしれない。

徳川家康がそのようなことを考えていたかどうかはわからないが、江戸城を中心に今も東京は変化し発展していることを見ると、東京が江戸城を中心に作られ、これからの成長と活動も江戸城下町の心意気で行くことが自然体なのだと感じさせてくれる。

               ◇◆ おわりに ◆◇

~花の輪47県~
皇居の内堀通の歩道には47県の花のタイルが100メートル間隔でぐるりと埋め込まれている。まさに全国の中に東京があり、日本と江戸城が一体であることに思いを馳せる。

***

志村けんさんがコロナウイルスに感染したことを知った10日前、多くの方々と同じように大ファンの私も動揺した。週末の夜に江戸のブログを書いているときも志村けんさんの1日も早い完治を祈っていたが、叶えられなかった。

今でも、令和に生きた殿の『だいじょうぶだぁ~』と言うおどけた声が空から聞こえてくるようだ。江戸の殿様であった徳川家康から志村けんさん達将軍は ”天下泰平” を願い、日本人を大切に思っていたであろう。

この故人の心が400年(1600~2020)の歴史の中に存することを、おそらくAIではわからないだろう。これからも人だけが歴史から想いを汲むことができると思う。

この難局をみなで乗り越えて、
今度はこちらから、志村けんさんに  ”江戸も日本もだいじょうぶだ~”  とお返しできる日を1日も早く迎えられることを祈りたい。

その先には新たなる明るい兆しが見てくるに違いない ‼
歴史上ありとあらゆる災害・疫病・戦争が人間を追い詰めたけど、その度にそれに打ち勝つように発展してきたのだから、今回もどれだけダメージを受けようが我々がしっかりしていれば崩壊することはないことを信じる。

(文責:金田一喜代美)

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《参考文献等》
・週刊東洋経済『ビジネスマンのための世界史&宗教』 12/7/2019東洋経済社
・週刊ダイヤモンド『世界史でわかる日本史』2/15/2020号 ダイヤモンド社
・「Q&A 不動産オーナーの相続対策」//辻・本郷 税理士法人(税務経理協会)
・「税理士のための顧問先企業の 防災・減災対策ハンドブック」//辻・本郷ビジネスコンサルテイング編(第一法規)
・「江戸時代の税」国税庁HP
https://www.nta.go.jp/about/organization/ntc/sozei/tokubetsu/h12shiryoukan/01.htm
・税務通信『コンテナ型トランクルームの節税投資にストップか』No,3594 令和2年2月24日
・週刊・江戸時代の税・小兵衛達の税金は?
http://kenkaku.la.coocan.jp/zidai/z
・「銀河の交通渋滞」//(本郷宇宙塾12月 & ECCOZZERIA(大丸有サステイナブルポータル)
https://www.ecozzeria.jp/series/chiebukuro/space/space_140108.html
・「千代田区の文化財HP」 http://edo-chiyoda.jp/shirabekata.html
・「江戸散策第23回」高橋達郎 https://cleanup.jp/life/edo/23.shtml
・「江戸と江戸城」(講談社学術文庫)
・「江戸城の全貌」(さくら舎)
・「日本の名城 解剖図鑑」(株)エクスナレッジ
・「日本史事典・COM」 https://nihonsi-jiten.com/
・「城の作り方図典:新版」(小学館)
・「江戸の発達」 東京都
・「東京百年史第1巻」東京都
・「東京都公文書館」
https://www.soumu.metro.tokyo.lg.jp/01soumu/archives/0712edo_hanni.htm
・「歴史の失敗学」(日経BP)